武満徹/Visions in Time@東京オペラシティアートギャラリー

azamiko2006-06-12


もっと、早く行くべきでした。
とても後悔しています。
ギャラリコンサートや武満が音楽を担当した映画の上映がすでに終わっています。


観るもののまばらなギャラリー。
武満徹がいる。ノーヴェンバー・ステップス~日本の管弦楽名曲集
鼈甲色の古びたスピネットピアノの傍らに、
象牙の鍵盤や譜面台に拡げられたスコアの研がれた鉛筆の筆跡に、
瀧口修造のバーントドローイングやデカルコマニーや描線を走らせたペン先に、
そして彼の詩やふたりが並んで歓談する存命中の写真に、
実験工房の造形やモノクロームの映像やその高まるナレーションに、
サン・フランシスのブルー・グワッシュの滴りや加納光於の〈オーロラ〉や〈Mirror33〉や〈逃げ水〉と題されたオマージュに、
フォアン・ミロの〈人物と鳥〉の身体の空洞や飛行機のブロンズや村上華岳の〈風景〉の山肌に、
ポール・デルボーのニンフたちの水浴やクレーの矩形や飛散された赤い円形や駒井哲郎の〈夜の魚〉や〈樹木〉に、
大竹伸朗の開かれた小箱の武満とラッセル・ミルズとのスケッチや〈メンフィス〉の紫の濃淡に、
宇佐美圭司司修の武満の書いた譜面とのコラボレーションの淡い色調に、
ムナーリの「読めない本」に書き込まれた奏者への指示に、
武満自身の描いた水彩絵の具の音楽的なタッチに、
そして、武満が眼と耳の相互作用を意識したというオディロン・ルドンの〈起源〉の怪異さと〈眼を閉じて〉の安らぎにオディロン・ルドン―光を孕む種子



武満は現実の世界を通路としながら広大な異空間を時空に現出させた。敬愛する瀧口修造がそうであったように。
展覧会を記念して出版された本の冒頭に

人間は目と耳とがほぼ同じ位置にあります。これは決して偶然ではなく、もし、神というものがあるとすれば、神がそのように造ったんです。目と耳。フランシス・ポンジュの言葉に「目と耳のこの狭いへだたりの中に世界のすべてがある」という言葉がありますが、音を聴く時ーーたぶん、私は視覚的な人間だからでしょうー視覚がいつも伴ってきます。そして、また、眼で見た場合、それが聴感に作用する。しかも、それは別々のものではなく、常に互いに相乗してイマジネーションを活力あるものにしていると思うのです。

眼と耳の隔たりの間の豊穣な世界。
会場では、ヘッドホンで武満の作品を聴くこともできる。
ルドンの「眼を閉じて」のそれぞれ描いた方法も日時もちがう3枚の絵を見ながら、「閉じた眼ー瀧口修造の追憶に」ピーター・ゼルキン(ピアノ)を聴き、小原浩(フルート)の演奏「イサム・ノグチの追憶」を聴きながら、フォアン・ミロのブロンズやイサム・ノグチの彫刻をみるというふうに。