森村泰昌『卓上のバルコネグロ』

表参道は例年並木をクリスマスイルミナーションで飾り、見物客で賑わうが、今年から混雑がひどく交通渋滞になるということで中止になったらしい。

表参道に行くと必ず立ち寄る『ナディフ』に行く。『ナディフ』では森村泰昌の写真集「卓上のバルコネグロ」発刊を記念しての展覧会を開催中。
ギャラリーは小さいけれど、この日はたまたま森村泰昌とゲストに吉増剛造を迎え、4時からトークショーがあったらしい。中央の20席ほどの椅子席を囲んで、立ち見の人も多く、店内はいっぱい。トークショーは終盤だった美術の解剖学講義
二人のトークは熱を帯びていたけれど、途中から聞いたのでよく分からなかった。吉増さんが、森村作品を評して、表現の「くぼみ」ということを言われていて、森村さんが共感していたのが印象的だった。
展示された作品で印象的だったのは作品集の中にも収められている、壁に掛けられた装飾的な鏡に逆文字で書かれていた言葉。

人間は忘れる生き物である。あるいは、忘れてしまわないと生きてゆけない存在だともいえる。虐殺があったことも、天変地異が起こったことも、埋め立てて新しいビルを建設してしまえば、すべて消え去る。未来が始まるとはそういう意味である。
私はいつまでも後ろ髪ひかれて、前に進めない。傾いた長屋の路地に、崩れかけた病院の壁に、乳母車を押す老婆に、「あんたもどこかに行ってしまうのかい」と、くりかえし呼び止められる。

ここで言う「未来が始まる」というのは森村特有のシニカルな表現だと思う。
彼はいつだって過去にこだわってきたのではなかったか。
だからこそ、名画の中の登場人物になって、自身を記憶の中に留めようとしたのではないか。
人間は忘れる生き物。
たしかに、忘れなければ、前に進めない、生きていけない時がある。
忘れるということは人間に与えられた優れた本能なのかもしれない。
忘れることで生々しい記憶も悲惨な過去も過ぎ去ったこととして、意識の底に押しとどめられてゆく。
忘れ去られたのではなく、押し留められているだけだ。
だからこそ、過去を取り出すときのために可能なかぎり公正に記述しておく必要があるのだと思うのだけれど。