四月の光


輪郭をもたない昼下がりの太陽が四月の空に、光の粒子を降り注ごうとする時、逆光の鈍色の道にはなにもなくて、あの大球技場を回り込むように伸びた四車線道路から一台の軽トラックがやって来る。
その軽トラックはどんな色だったのか、誰かが乗っていたのかも思い出せない。
たしかに私の側を走り去った。
荷台には何もなかったのだけはやけに印象的で、なぜか私を落胆させた。
荷台がからっぽだったからではなく、そこに誰も乗っていなかったから。
そんなことに気付いたのは、だいぶ経ってからだろう。
どこから来たのか、どこまで行くのか、荷台には乾いた泥の痕跡があった。
4月の光を受けて、泥は乾いて窪みのある底面に張り付いていた。
その記憶が鮮明なのは、やはり誰も乗っていなかったからにちがいない。


一瞬のうちに通り過ぎたはずなのに、なぜ、私はこんな光景を思い出すのだろうか。
私が目指していたのは道路の反対側、横断歩道を渡らなくても、通る車もなく、やすやす横断できる向こう側にあるガラス貼りの四月の光を反射した建物だった。
内部に緩慢な時間を満たして、日常に聳える建物。


私には、昼下がりの光がまぶしかった。まだ、5月の光ほど煌かない四月の光がやさしく、まぶしかった。
このときに感じた眩しさを記憶しておかなければ、なにかを忘れるような気がした。
一瞬過ぎ去った軽トラックは単にこの眩しさの記憶と重なったにすぎない。
一瞬の記憶が貼りつくことがある。
そして、そのとき感じた不思議な幸福感に満たされることがある。
その記憶は反芻されても色褪せることはない。
けっして色褪せることはない。