ピナ・バウシュ ヴッパンタール舞踊団@国立劇場

紗羅さんお奨めの初めて観たピナ・バウシュ
とてもよかったです。
舞踊は、カテゴリーを設けていませんでしたが、1月『透明迷宮』高橋悠治piano×笠井叡dance。
3月には友人のボリビアの民族舞踊を観ました。
ボリビアカーニヴァルのきらびやかでセクシーな衣装を撮りそこねたのが悔やまれます。
14日には吉本さん舞踏を見る予定だったのを断念。


オーチャードホールと間違えて、週末の混雑した渋谷の街をタクシーを走らせ、5分ほど遅れて国立劇場に到着。なんとか滑り込みセーフ。
こういうこと最近しばしば(^−^;
客席はサイドはかなり空席だったので8分の入りか。


ピナ・バウシュ、名前だけは知っていましたが、何の前知識もなく客席に着くと、暗いステージの上にはたくさんの椅子とテーブル、回転ドアー、鏡の衝立。
『カフェ ミュラー
音楽は静かなアリアが流れます。
カフェミュラーとは意識の混在した場。意識そのもののよう。
一人の女の情動を表現するとともに、彼女の意識の中にある苛立ち、慰め、いたわり、理性などがそれぞれダンサーによって表現されているように思えた。
少女に扮したピナバウシュが踊っているのは、そんな女性の存在と重なりながら対照をなしているからだろう。無意識、透明さ。
以上勝手な解釈です。


二部のストラビンスキー『春の祭典』は広いステージに厚く土が敷き詰められて、男女それぞれ数十名の群舞。
ダンスというにはあまりに力強く。土にまみれて肉体が躍動し、春の胎動そのもののよう。
ダンスがあって音楽『春の祭典』があるのか『春の祭典』があってダンスがあるのか、振り付けと音楽が同時に生まれたかのように合致していた。
地表が蠢きだし、植物も生物も、息吹を漲らせる春。
地球が太陽の周りを自転しながら廻っている天体のひとつだということも、人間もその生物の一部であることも感じさせる。
地表で営まれる男の女の不幸な物語。
白人の男の犠牲となるのは少女かと見紛う有色の女。
春の嵐のように繰り広げられたこの衝撃的なドラマが同時に、それでもこの地上の長い歴史のありふれた断章であると語っているようにも思えました。