『人力飛行機ソロモン 劇場版』@月蝕歌劇団

azamiko2006-02-15

寺山修司:作、高取英:構成演出、J・A・シーザー
楽日にtosukinaさんもご覧になったという『人力飛行機ソロモン 劇場版』を11日観に行きました。
寺山修司の演劇を生で観るのははじめてなので、この臨場感をどのように表現したらいいのか・・・。
挑発と詩情に満ちた、とても刺激的な劇でした。

アンダーグラウンドの狭い会場がより密度を高めたのではないかと思えるくらい、新宿サニーサイドシアター(PITINNに近い)は独特な雰囲気。
桟敷席までぎっしり埋まり、壁際にすわっていると、暗幕を張ってわずかに確保された通路を役者がすり抜けていくのが分かります。
無人島に住むロビンソン・クルーソーを導入にオムニバスでつづられますが、その挿話を、操作・管理される疎外された人間、都会人の孤独などの解釈はできても、それをえがくことがこの劇のテーマというのでもなく、個と集団をテーマに、人のうちに眠る根源的な力を呼び覚ますことにこそ、この劇の主眼があるのだと思います。
無人島に行くな!ここに残れ!」
最後のアジテーション寺山修司の彼方からの呼びかけです。
(演出ノートから引用)


事物も人間も、あらゆる世界の現象も、思い出せば日々の命令によって創造されたのであった。
命令は四散した事物を回収し、一家を集合せしめ、眼には光を、群集には国家を創造させる。
だが、一体、誰がその最初の命令を送り出したのか?
誰がエイハブ船長に鯨狩りをつづけよと命じ、誰がジンギスカンからトロツキーにいたる人びとに絞刑吏たれと命じ、誰が沓掛時次郎に旅立てと命じ、カラスに飛べと命じ、サビンコフに爆弾を投げよと命じたのか?
日没の時はやってきた。
命令は外面的集団化としての国家だけを創ったのではなかったか。
命令は僕に言葉を与え、言葉は忽ちぼくの肉体を集合体として扱い、国家を幻想した。
見よ。
ぼくはぼく自身の国家である。
ぼくはぼく自身の国家である。ぼくはぼく自身の国家である。
ー―そして、僕自身の歴史は未だに記述されたことはない。


出演者たちが手にするライトがステージ上の誰かに、客席の誰かに向けられるたび、個への問いかけとしてこの劇が演じられているという緊張が漲ります。

このあとの詩劇ライヴ『五月の鷹 演説草案』もみましたが、この月蝕歌劇団の出演者のほとんどが女性、それも美少女たちで演じられていて、偶然美少女たちが集まったのかどうなのか、会田誠の美少女戦士を思い起こさせ、インディーズ系サブカルチャー指向の学生たちを中心に男性ファンに支持されているというのがよく分かりますが、演出家の演劇に秘めた戦略的な意図をも同時に感じました。

次回の公演「龍馬は戦場に行った」5月10〜15日。
会場のザムザ阿佐ヶ谷は日本映画上映のラピュタ阿佐ヶ谷の地下にある劇場です。
やっぱり、次も行かずにはいられなさそうです(笑)