『写真はものの見方をどのように変えてきたか』@東京都写真美術館

azamiko2005-10-04

10月月1日は都民の日です。
この日は都立美術館、都立公園、都立博物館など、都立の文化施設は無料なのですが、どこかお出かけになりましたか?事前に近隣の県にお住まいの方にもお知らせすればよかった!みんなで楽しめたのにね・・・(後悔)。
去年は目黒の庭園美術館に。今年は出かけるのに3時過ぎてしまいましたが、この機を逃す手はないと都立写真美術館に行きました。
今写真美術館では1995年会館10周年記念特別企画で『写真はものの見方をどのように変えてきたか』というシリーズの第4部『混沌』1970年以降から現在までの写真表現を通して時代背景とともに変化してきた作家像、美術館と写真の関係性をテーマに館所蔵の作品を展示しています。
カタログにミスプリントがあって、印刷中というので、カタログは購入できませんでしたが、多様な面白い作品が多くありました。
表現としての写真は〈鏡〉と〈窓〉といわれているように、自己の内在する世界を映し出す視覚表現と外部世界の現実をとらえる窓としての写真がありますが、写真の現在を観てみると、表現自体にその境界はなくなっているように思います。
印象に残る作品を考えた場合、外部世界の現実をとらえながら、意識的か否かに関わらず、作者の内部世界をも同時に映し出しているようです。
また、一方、〈鏡〉や〈窓〉のような世界をある意味づけをもって写した写真から、荒木経維の亡き妻を撮った私的アルバムとも言える『センチメンタルな旅』や、猫や花、雑踏、生きとしいけるものへのオマージュともいうべき作品、森村泰昌の名画『コーネリウスの首を切るユーディット』をパロディーにした写真とも絵画とも判別しがたいポストモダンな作品のように、作者の意味づけも必要としない、即物的な被写体に対する欲望、撮りたいから撮ったという面白さの追求こそが唯一と思える写真などを前にすると、作者の内在性など無関係のように思えてきます。

『写真はものの見方をどのように変えてきたか』、近代の写真が〈鏡〉と〈窓〉から出発し、意味づけるものから、外部、内部を超えた多様な表現が観るものに、写真の前に佇ませる何か喚起させる触発力、転換の力を与えてきたといぅことだけはたしかなようです。