『バス174』〜見えない存在を見える存在として

(ネタばれあり)
『バス174』は、予告はみていたが、想像していた内容とは違っていました。
ブラジルで強盗未遂から端を発したバスジャック事件、乗客11人を人質にとった犯人サンドロは小さい時に母を目の前で殺されて以来、リオのストリートで生きてきた。彼は存在するのに存在しない、見えているのに、見えない存在として生きてきた。
この映画が『シティー・オブ・ゴッド』に比肩する作品と語られていたため、ストリートチルドレンとして生きて来た少年がギャングとなったその背景をドキュメントした作品と思い誤解したようだ。『シティー・オブ・ゴッド』の少年たちは仲間を殺すことを厭わない。
しかし、サンドロは違う。彼は信号待ちで停車する車の前で、芸をしてみせる少年たちと同様、この不平等な社会でなんとか生きるすべを見つけようとしていた少年だったにちがいない。
バスジャック事件のサンドロに人を殺そうという意思はなかった。彼は、何とか浮かび上がろうとしていた。それを支える人もいた。彼には警察への不信、教会で仲間を虐殺されたことの怒りがくすぶっていた。
サンドロの生きていたリオには警察官や暴行マニアによるストリートチルドレンに暴行を加えたり、殺害を請け負う「死の部隊」があるという。
ストリートチルドレンは消される存在として、見えない存在として事件が解決されることはない。彼らに訴えるすべはない。
サンドロは人質を伴い、バスの外へ出た。彼に何かを交渉しようという意思があっただろうか、何かを交渉しようとしたからではなく、存在そのものを見えるものとして人の目に見せるためにバスの外にでたのではなかったか。

この映画で想起したのは、1980年に起きたホームレスによる『新宿バス放火事件』だった。劇場型といわれるサンドロとは違う『新宿バス放火事件』の犯人については、当時精神障害があったというくらいであまり報道されなかったが、日雇い仕事をしながら、別れた子どもに仕送りをしていたという犯人が東京での路上生活で見えないもの、存在しているのに存在していないものとしていたことは容易に想像がつく。

私たちは結果的に犯罪によってしか訴えるすべのなかった彼らの思いを大きな犠牲と引き換えに受け取らなければならないというところにいる。