堕ちてゆく〜金綺泳監督『下女』@映画美学校第一試写室

http://www.hf.rim.or.jp/~t-sanjin/kimgiyon_gejo.html
ブックセンターから歩いて5分、映画美学校へ。
古いがとても観やすい試写室だった。(以下、ネタばれあり)
金綺泳(キム・ギヨン)監督の最高傑作といわれる『下女』は1960年の作品で、第8回アジア映画祭で小津安二郎の『秋日和』とグランプリを争った作品。
すさまじい!憎悪むきだしの破滅に向かう一家。どろどろと溶かされてゆく個。足に絡みつく下女のからだを引きずって、逆さまになった頭をゴツンゴツンと音をたてて階段を下りてゆく最後の方のシーンなど、あまりのすごさになぜか笑いがこみ上げてきてしまうほどのリアリズムだった。『皆殺しの天使』にみられるブニュエル的な閉塞感とでもいおうか。しかし、儒教的規範がつくる閉塞である。
そして、これは額縁劇になっていて、最後に主人公が今まで語られていたことが妄想であったことを語るのだが、この最後の部分をどうみるかでこの映画の価値は大きく違ってくるのではないか。作者にとっては苦肉の策であるのかもしれない額縁というものに救いを感じる観客は多いのかもしれない。
額縁の必要性は興行的な意味合いが多分にあるだろう。救いようのない物語が、観客に受け入れられるように、教訓的なものであるということにすることで、映画興行的にも政治的にも成立させようということである。しかしこれは金綺泳の仮面に過ぎない。この妄想こそが金綺泳の描こうとしたことの本質であり、だからこそこれだけ迫真のドラマとなったはずである。そして、この額縁劇、妄想の部分をフェミニズムが批判することはいくらでも可能である。金綺泳がそのようなフェミニズム的批判など意に介さないだろうというのも、また当然だろうが。しかし、私はむしろ、この額縁の外側、最後に妄想であったと語ることにこそ批判されなければならないものがあるのではないかと思う。個人の妄想はたとえ、どのような妄想であろうとそれを否定はできないし、表現は許されるべきである。作品の中で優柔不断な男が理性のない女たちによって破滅させられていく姿を、蟻地獄のように崩壊してゆく家庭を、女性の視点が欠如しているという批判はいくらでもできるだろうし、その必要性もないとは思わない。しかし、繰り返すが、問題なのは、むしろ表現するいじょうは、あえて批判に晒されるべきであるということだ。妄想でしたと額縁の外側からしたり顔で主人公に言わせることによって、結果的に自身の妄想への不誠実を表明することになっているばかりではなく、体制におもねる結果になっているように思えてしかたがないのだ。こういう意匠を施していなければ1960年という時代にこの映画が韓国で日の目を見ることもなかったかもしれないということを差し引いたとしても。あえていえば、額縁の存在自体を批判しているのでもない。額縁の外から語られた言葉が欺瞞的であるということである。妄想であろうとなかろうと描いたものに対しての責任は問われ、どんなに問われようと描きたかったことを描くというのが表現するものの本来の姿であるはずだと私は思う。



#東京一開花の早い国立駅舎の山桜(?)
駅舎の移築とともに姿を消すとのこと(残念!)