野の花一束

azamiko2005-02-09

葬式はなくていい。葬式をして、義理で来なければいけない人のことを思うとほんとうに申し訳なく、その上、お香典をもらうことにでもなったらどうしようかと思ってしまう。
シャコンヌと野の花をひと束お願いしてもいいですか?
お墓もなくていい。海の底でお魚につんつんされながら漂っているのがいい。タブラ・ラサを記憶にして。できれば冷たい海じゃない方がいいけれど。じゃなければ、ブルーベリの木のある丘の上、小鳥が実をついばみに来て、熟したブルーベリーが降る柔らかい土ならいいかな。
突然こんなことを書いていることを不可解に思われるかもしれませんが、何か大きな病気がみつかったわけでも、身内に不幸があったというわけでもなく、友人のお父さまが亡くなったからなのですが、葬式という儀式が、近親者をなくした家族にとって精神的にも、肉体的にも、経済的にも負担を強いながらあるということは、ある意味合理的システムとして機能しているからなのだろうかと考えていた。
葬式という死者にまつわるもろもろの社会的区切りとしての儀式。
かつては共同体の構成員であった者の死の認知のための儀式としてあったのだろう葬式で、ともに悼むという行為によって、共同性の認識と再構築という意味合いもあったかもしれない。
しかし、もっと端的にみも蓋もなく言ってしまえば、死者にまつわる社会的なしがらみの煩雑さをいっぺんでかたをつけようとする通過儀礼
死者を内に取り込むということと同時に残されたものの悲しみは後からやってくる。
死者を悼む気持ちは葬式という場があってもなくても変わるものではないし、葬式という儀式によって区切れるような死者との精神的な区切りなら、葬式という場がなくても区切れるのだろうにと思う。
お葬式はしなくていいです。お墓も要りません。と日記に書いておこう。
それでも、人は生まれてきた時と同じく、死んだ後の始末は誰かに委ねなければならないし、せめて、その始末を誰かがやってくれるくらいの生き方はしておかなくてはと今は思うのです。

ペルト:タブラ・ラサ

ペルト:タブラ・ラサ

タブラ・ラサとは白紙、空白の意味。
ほんとうに海に漂っているような曲なのです。