『トニー滝谷』監督:市川準 原作:村上春樹

azamiko2005-02-04


2日、水曜日、『トニー滝谷』を観にいった。テアトル新宿15時からの回。ウイークデーにもかかわらず、場内はほぼ満席。レディースデーで女性も多かったけれど、若いカップルが多いようだった。
作品はなかなかよくできていた。監督の市川準は画面へのこだわりが強い人なのだろう。ワンショット、ワンショットが絵になっている。時間軸に横にスライドさせる画面構成も利いている。それはきわめて映画的といおうか、それだけで飽きることなく観ていられる。内容に多少の違和感があったとしても。と同時に必要最小限の場面構成は演劇的でもあった。坂本龍一のモノトーンのピアノもいい。時間の流れの中でトニー滝谷の存在を音にしているように感じさせるものがあった。語りですすめられるストーリー展開も私小説的な雰囲気を出している。ワンフレーズを登場人物に言わせることで、小説と映画とを繋いでいるといおうか、小説の中の言葉をセリフとして言語化しているということを意識的に見せるという意味で演劇的である。
なにより魅力的だったのは、宮沢りえの足元。美しく可憐な足元だった。さまざまの靴を履着替えて歩くシーンを繋ぎ合せ、足元だけがつぎつぎ繰り出される数分間は出色だ。全身を写すよりも効果的に衣服(買い物)依存症を表現している。靴というものの喚起する抑圧された性的欲望のイメージゆえだろうか。
一方、演技が上手いと言われているようだが、イッセイ尾形ははまり役だったのだろうか?と思う。たしかにステージでは上手い役者なのかもしれない。ステージではそれとわかる演技が必要だ。しかし映画ではカメラがまじかに捉えるので、演技よりもむしろ、表情だったり、自然なしぐさだったりする。それが要するに演技ということになるのだが、演劇的演技が身についているイッセイ尾形の表情やしぐさにしっくりしないものを感じた。その上、ちょっと老けすぎの感。学生時代のロングヘアーは滑稽だ。どうみたってカツラにしかみえないし、あの前を切りそろえた髪型もおかしい。
しかし、作者(市川準)はこれらのこともあるいは、確信的にやっていることなのかもしれないとふと思う。この淡々とした私小説的映画の中に滑稽さによって引き起こされる違和感を観客の目が捉えることを必要としたのかもしれないなどと。この映画が演劇的だということを考えれば、不思議ではないのかもしれない。
作者は私小説的ナルシスティックになりがちな映画を、観客を笑わせることによって、意識的に映画の完全を壊し、ナルシスティックな完成を拒んだのかもしれない。 演劇的な映画をつくるということ。それは作者が客体化された映画をつくるために必要な方法だったのかもしれない。