『フルクサス展ー芸術から日常へ』うらわ美術館

azamiko2005-02-02


浦和まで行ってきました。はじめてのうらわ美術館です。西口から徒歩7分。

会場に入る前に渡されたチラシには

フルクサスとは?
主に1960年代から70年代にかけて、アメリカ、ヨーロッパ、日本で展開した前衛芸術の動きです。笑う、叫ぶ、水を注ぐ、髭をそるといった日常的な動作を多く取り込んだパフォーマンスを数多く行いました。「フルクサス」と銘打ったイヴェントが最初に行われたのは1962年、ドイツのヴィースバーデンでした。

とあります。
Fluxという言葉(ラテン語でFluxus)は「流れる」「変化する」「浄化する」という意味だということですが、私の理解しているフルクサスといわれる前衛芸術の動きというのは、芸術とは芸術家によって作られるものや美術館に展示されているものにとどまらず、日常的な営みの行為の中にこそある。既成の枠を壊し、現実を展開させ、人と世界(宇宙)と出会うこと。交信すること。と、まあそんなところでしょうか。
去年の『オノ・ヨーコ展』は例えば、海綿と水を張ったコップとスポイト(海綿にスポイトで水を含ませるのはなかなか楽しいものでした)であったり、会場に展示されている電話にニューヨークにいるヨーコさんご本人から電話がかかってきたり、展示されているものをどのように解釈するか、などなかなか面白いものでしたが、今回は、主にフルクサスに関するポスター、案内状、プログラム、書籍、ビデオなどの展示が多く、その多くが外国語であったため、語学不如意、丁寧に読んでいたら日が暮れてしまう私は、それらはひとまず眺めて歩くというくらいでした(笑)。
上記の説明だけでは、ご存知でない方には、どのようなものなのか想像しにくいので、会場にあったものを少しご紹介すると、オノ・ヨーコジョン・レノンとの出会いとしても有名ですが、一枚の画布があり、かなづちがぶら下げてあり、傍には釘が置いてある。来た人は、釘を画布に打ちつけ、髪の毛をまき付ける、というもの。また、一枚の画布があって、何色かのクレヨン、鉛筆が置かれている。来た人はそれぞれその中に好きな〇を書くというもの。あるいは、また、テーブルと椅子があり、壊れたいくつかのピースになったカップとソーサが置いてある。それらばらばらに分散したかけらを、のり、ボンド、瞬間接着剤、セロテープなどで張り合わせて復元するというもの。そして張り合わされたカップ&ソーサは棚に並べる。等。これらは展覧会の終了とともに完成した作品となる。他には、グランドピアノの蓋が開いていて、ピアノの弦の上を底の丸いものではじいたり、ビー玉を転がしたりして、音を楽しむ。また、鍵盤の上に石を載せて、石の出す音を楽しむ。というもの等。
椅子に座り、ソーサーを貼り付け復元することに没入しました。元の形に戻すということは、何かとても自分自身を復元していくような感じというか癒されてゆくような感じです。日常では壊れたカップやソーサはもう使い物にならないわけで捨ててしまいますが、ボンドやテープで貼り付け、「復元するという行為」がここでは意味があるのであって、使い物にはならないけれど、貼り付けられたカップやソーサが棚に何列にも並らべられているのをみていると、不思議に満たされていく感覚になりました。なんだか精神療法のような(笑)。
つまり芸術とは、トランセンデンタルな力。内なる枠を揺るがし、より根源的な生を生きようとする試行(思考、志向)なのだと思います。

グレープフルーツ・ジュース (講談社文庫)

グレープフルーツ・ジュース (講談社文庫)

会場にも置かれてあったオノ・ヨーコの『グレープフルーツ・ジュース』という本にも書いてあった私にもあるフィルムの記憶。
それは、ジョン・レノンが広くて、暗い、部屋で、白いピアノに向かってイマジンを歌う。ヨーコはこの広い部屋の真ん中に座っている。ジョンがイマジンを弾きながら歌っているとヨーコは立ち上がって、窓にかかっている閉じられたカーテンを開けていく。つぎつぎにカーテンは開けられ暗かった部屋は、窓から差し込む光でしだいに明るくなってゆく。そして、すべての窓のカーテンは開き、ジョンは、光を浴びながらピアノを弾き、イマジンを歌っている。
このフィルムが言いたかったことに気付くには、だいぶ時間が必要だったと思います。
つまり、フルクサスというのは、そういうことだ(笑)。
しかし、今こうして美術館の会場で『フルクサス展ー芸術から日常へ』として展覧されているということは、本来の意味する日常の運動としての芸術ということからすると、とても皮肉なことでもある。けれども、展覧会を契機にひとの中の日常がそのひとの中でなにかの転換をみせるものであれば、それは大きな意味があることなのだと思うのです。