『僕の叔父さん網野善彦』(中沢新一著 集英社新書)

僕の叔父さん 網野善彦 (集英社新書)

僕の叔父さん 網野善彦 (集英社新書)

面白かった。お奨めです!
網野善彦が日本の歴史学に新しい地平を開いた人だということは歴史好きの友人からたびたび敬意をもって聞かされてはいました。それがどういうものかということは著書を読んでいない私には、よくはわからなかったのですが。
本書は、宗教学者であり、網野善彦の甥(妻の兄の子)である中沢新一による網野歴史学誕生の記録であるとともに、手引き書であると言っていい。また、同時に、中沢新一のフィールドを示すものともなっている。専門的な部分はわかりにくい部分もありましたが、ゆっくり繰り返して読むことで理解できます。
まづ、印象に残ったことは、網野氏と中沢家の人びと、甥(妻の兄の子)である中沢新一を含め、知の文化が伝承され、熟成されていくダイナミックスとでもいうような関わりよう。年齢の隔てなく、お互いがお互いの思うところをぶつけ合い、議論しあう中から、触発され、ひらめき、問題意識は明確になってゆく。そういうぶつかり合いによって、脆弱ではない柔軟で強靭な思考が湧き上がってくるのだと思いました。
そういう文化的醸成の場が親族という親密な関係の中にあったという幸福。幼いころからそれらを目撃し、体験し、受け継いでいったところに今の中沢新一がある。
網野氏が高校で歴史を教えていたころある生徒に受けた天皇制についての「なぜ、日本人は天皇制を消滅させることがなかったのか?」という本質的な質問に答えるべく、実証的な歴史学を越え、天皇制の成立を研究することになっていった逸話もとても面白く、人柄をしのばせます。
アジール」についての考察は、今の日本の状況を考える上でもとても示唆にとんでいると思います。少し長くなりますが引用すると

人間は自然の決定するものから自由であることによって、言語や法や社会的規則の体系をつくりあげ、その体系の拘束にしたがって生きるようになった。そのとき同時に、人間の中にはそうした規則の体系を乗り越え、否定していこうとする新しい欲望が生まれる。根源的な自由を求めるトランセンデンタルの欲望である。社会的な規則の体系と、この根源的自由の欲望とは、まったく同時に発生する。両方とも人間の本質に根を下ろしているけれども向かうところは反対方向を向いている。
この根源的自由を現実世界において表現したもののひとつが、アジールなのだ。アジールをつくり出そうとする夢と欲望は、それゆえ人間の本質に属している。(略)
アジールはむしろ法や権力のさらに根源にある否定性をあらわしているのだ。人間の心のもっとも奥深いところで活動しているのが、この根源的自由であり、それは、国家を立ち上げようとする意志よりも深い。
この根源的な自由が、さまざまなアジールの形態をとおして健全に作動している社会は、風とおしがよい。そういう社会では、権力がいたるところで一色に染め上げていくことを許さない。法や権力の絶対に侵入していくことのできないアジール空間が、そこここに実在していることによって、社会はたくさんの穴の開いた平面としてつくられることになる。その穴をとおして、根源的自由が社会の中にすがすがしい息吹を吹き込んでくる。

今の状況に窮屈さを感じ、その不自由さを超えようとする欲望が充満しているように思えてなりません。それは少しも不思議なことではなく、人間の根源的欲望なのですね。欲望として抱えるだけでなく、欲望に形を与え、表出する場(アジール)をつくっていくことが必要なのだと思います。

非農業者、芸人、罪人、非人など、従来の歴史学からはこぼれ落ちていた民たち、道祖神や蜜教などの性的なエネルギーをもった宗教にみられる野生を歴史の中に再生しようとするトランセンデンタルな強い意志を感じました。
「非人間=非人=賎しいもの」、という概念から「非人間=カムイ(人間の普通の能力を超えたもの)=聖なるもの」という価値の転換は、社会における差別を考える上でもとても示唆にとんでいます。
全編を通じて流れる、澄明に響く中沢新一による網野善彦へ、しんちゃんからおじちゃんへの感謝と愛惜に満ちた追悼の書です。

記念の石は建てないがいい ただ年毎に
薔薇の花を彼のために咲かせるがいい
なぜならオルフォイス あれやこれやのなかの
彼の変身なのだ ほかの名前を

リルケの詩も印象的です。