『靖国』監督:李纓@ミネ・アミューズ


前半一部眠ってしまいました。(^−^;
しかし、映画の意図は一貫しています。
タイトルは『靖国神社』ではなく、『靖国』であることに注目するべき。
靖国、とは何なのか?
靖国神社を通して、日本人の『靖国』を考える。
そういう問いかけに思えました。


靖国神社を実際に知らない人は多く、かく言う私も、一度も靖国神社に行ったことはありません。
8月15日靖国神社の様子。
警察が、靖国神社の集会に反対する日本人青年を連行するシーン。
暴行した側ではなく、暴行された、保護を求めないという本人を無理やり車に乗せる。


ご神体が靖国刀という日本刀であることもはじめて知りました。
日本刀は美術工芸品として価値あるものであるのは言うまでもなく、老匠のつくる日本刀自体に問題があるわけではありません。
日本刀がどのように使われてきたか。
そのことを通して、靖国神社の本質を問うています。
戦時中日本刀で捕虜の処刑が行われたことは歴史的事実であり、英霊として靖国神社に祀られている人のなかには、捕虜を処刑した戦犯が含まれています。
靖国神社は戦前、戦中の日本人のメンタリティーのまま今に引きずった場所である。とあらためて思いました。
そこには、アジア諸国を侵略したという悔悟は少しも感じられません。

稲田議員他自民党議員から「日本の文化振興の目的に沿っていない」と、助成金を問題視していますが、インタヴューに応えて、監督がラブレターのようなもの、と語っているように、日本の文化の振興をほんとうの意味でのぞむ、日本人を愛する、反面的なメッセージです。
★★★☆



《追記》


『六文錢の部屋へようこそ!』六文錢さんの記事に触発され、鮮明に思い出すシーンについて書いておきたいと思います。


刈谷さんが作った刀がどのように使われたかは、刈谷さんの責任ではありません。
 その折の、状況と、まさしく「政治」の問題なのです。
>監督は刈谷さんをあるがままに美しく描いています。


監督のインタヴューというよりもむしろ会話と言ったほうがいいようなふたりの対話の中で刀鍛冶の刈谷さんが
靖国神社は二度と戦争がおきないようにという気持ちで・・・であって、小泉さんがお参りするのと同じだというような意味のことを言っておられました。


(実際に、靖国神社を訪れる人の多くは戦争を望んでいるわけではなく、二度と戦争がおきないようにと願っている人は多いのだろうと思います。)


監督は、そのとき、「う〜む・・・・」という言葉にならない、言葉にしないまま、その言葉に直接返答せずほかの質問に移る前、ちょっと沈黙があり、刈谷さんの表情は戸惑い、気まずい、硬直した雰囲気が流れました。
短いシーンでしたが、映像は刈谷さんの表情を鮮明に映し、それはとても印象的でした。


「小泉さんと同じ気持ち」ということに、まず引っかかりますが、(イラク戦争を支持したのは、小泉首相であり、日本です)

監督に刈谷さん本人を責める気持ちはないでしょう。

刀がどのように使われたかは刈谷さんの責任とはいえないからです。

しかし、刀がどのように使われたかということに無頓着であっていいということではない。ということは言えます。

それは、日本人として、刀匠として、人として。

刀は単に象徴でしかないのですが。

事実を知ることなく、知っていても隠し、歴史を修正してしまうということが、日本の現在にとっても、将来にとって、けっしていいことではないということを監督は言いたいはずです。

監督の沈黙は、刈谷さんご本人を責めるつもりはないもののそのことに気づいてほしいという気持ちの表れであっただろうと思います。

観たひとは、誰もが感じるように刈谷さんは魅力的です。

この映画『靖国』にとって靖国神社のご神体の刀匠刈谷さんは日本人の象徴でもあるでしょう。

あるがままに魅力的な刈谷さんを映し、だからこそ、監督が言うように、この映画は日本人へのラヴレターのようなものなのです。






#『ゼリーの風』PHOT BY MS.BEE