歪められた風景、抉り取られた眼球、あるいは騙されたと思って騙されるということ



緩やかに日の伸びゆく三月。
丘の上の午下がりの薔薇園からは、街が見下ろせて、このテラスで、ふたりは出会うことがある。
Aは二杯目のココアを前に、落ちたばかりの足掻いている一匹の羽虫をスプーンで掬い上げながら、昨日みた夢《えぐりとられた眼球》の話のあとを続けた。


後悔はしないけれど、漠然とした喪失感はあるの。
それをどのように表現していいのかしら・・・。


たとえば、夕暮れ。
はだしで波打ち際に立っていると潮が引いてゆく。
身体が、沈む。
それは、自分の身体の重さのせい。
バランスが崩れて、今まで、身体を支えていたことがごく自然なことだったはずなのに、足をとられて、足元をみつめる。


海に足を浸すのは心地よくて、日没のなかを、砂浜に足をとられながら水際を歩いていく。
心地よい疲労感。


そういうことだと思う。


身体が沈む、バランスを崩す。
それは、なにがしかの疲労感と喪失感をともなっていて・・・。


岬の突端の海岸べりにある、とある美術館で、Zは、のぞき眼鏡のような若林奮のValleysをみて、Aの言葉を思い出した。
そこからは、なだらかな下り坂の広い枯れ芝の向こう、ハイウェイの向こうに海がかすんでみえた。
大型タンカーや漁船、艦船までもがゆるやかに通り過ぎる海。
そこからはただ、ゆるやかにおだやかに。
岩場にはりついたウミウシさえ、想像できた。


平面の底辺部を残し、V字形の繋ぎ合わされた錆びた鉄板Valleysからは、視界はさえぎられ、収束され、向き合うように立たされる。
何かに。



フロアーは閑散として、それは平日だからというのではなく、若林奮の作品が理解の許容を超えているからにちがいなく、それでも矩形の素描、青、蒼、藍の色彩、錆びた鉄の胡桃の葉、Zには心魅かれるものがあった。


山は美術館を包みこむように抉りとられ、空に繋がっている。
屋上に立つと地平のようで。
日没は知らぬ間に訪れ、海と空との境界を消した。
夜は瞬く間に濃淡と煌きとに世界をかえる。
線より*1」の水のしたたりさえも。
グラジオラス*2」の花びらの白さえも。


日々ひとは別れ、ひとは出会い、別れ、出会い、出会い、別れ、別れ、出会い・・・。
そのひとときに輝くときがあるならば、出会いと別れに意味のないはずもなく。




まなざしの
おちゆく彼方ひらひらと
蝶になりゆく
母のまぼろし  
               寺山修司身毒丸
                





〈追記〉
「騙されたと思って騙されるということ」について
「騙されたと思って、○○みて」という言葉は、相手はきっと気に入るはずだという確信のもとに語られる。
相手の確信的な言葉に「騙されて」みるわけですが、結果は「騙された」からなのか、「騙された」からではないからなのか、よくよく考えるとよく分からない。
どこかあいまいで、かくも《私》というものはあいまいで・・・。
騙されてみるのも悪くない。