『太陽』 監督:アレクサンドル・ソクーロフ

azamiko2006-11-23

(映画の内容に触れています。未見の方はお気をつけください)


ひと月ほど前に観た映画ですが、いろいろ思い巡らす映画でした。
ご覧になった方の感想をぜひお聞きしたいです。


ソクーロフはどういう経緯で、昭和天皇を映画にしたいと思ったのでしょう?
パンフレットに書いてあるのかいないのか、買わなかったので、よく分かりません(^-^;

映画はフィクションであって、それ以上でもそれ以下でもないと思いました。
(当たり前のことですね)エルミタージュ幻想 [DVD]
ソクーロフの抱くヒロヒトをイメージしたフィクションとして、面白くみました。
エルミタージュ幻想』や『ファザー・サン』でみた陰影に富んだ映像も魅力的です。
実在の人、しかも昭和天皇ヒロヒトを映像にするって、さぞかし苦労がいろいろあったことでしょう。
外国人監督だからこそ撮りやすかったということもあるかもしれません。


イッセー尾形の演技は誇張というのでもなく、さりとてさりげなくもなく、TVや新聞、メディアで目にしていた昭和天皇を思い出させながら決してそのひとではないと思わせました。
実在の人物との齟齬が、演技であること、フィクションであることを鮮明に語っています。
天皇ヒロヒトは実在の人物でありながら、いつもフィクションを生きる存在だったのだとおもいました。
そのことをソクーロフの意図であるか否かに関わらず、印象付けた作品でした。
ソクーロフヒロヒト像はとても好意的です。
(政治的だと思う人もいるかもしれません)


ヒロヒトはイノセントな存在として、マッカーサーに「まるで、子どもだ」と評され、黒のタキシード、帽子、ちょび髭姿で、撮影に現れた姿を、米兵たちから「チャーリー!」(チャプリン)とはやし立てられます。
このシーン、スローモーションのようなイッセイー尾形の演技もいい。
外国人にとっての子どもやチャプリンのイメージは昭和天皇に親近感や好感を抱く人にとって、歓迎されるべきことにちがいありません。



話は逸れますが
ヒロヒトメモが発表されて以来、天皇A級戦犯に対する思いは、彼をイノセントな存在として、戦争責任から免責されるものとして働いているように思います。
というより、メモのあるなしに関らず、天皇を責任の伴わない、超越した存在だという捉え方が一般的のように思います。
ソクーロフ天皇像も同一線上にあります。

しかし、それがとても矛盾していると思えるのは、この映画の中でも描かれています。
御前会議は天皇の言葉が絶対なものである一方、天皇が国民を思い、戦争を忌避しようとしていたと描いています。
国民の苦しみを思う天皇が絶対ならば、なぜ、大きな犠牲を生みながら、止めることができなかったのでしょうか?
軍部が現人神である天皇の意思、言葉をも無視できたということでしょうか?


天皇ヒロヒトー彼は、悲劇に傷ついたひとりの人間


彼はあらゆる屈辱を引き受け、
苦々しい治療薬をすべて飲み込むことを選んだのだ

          ーアレクサンドル・ソクーロフ


これは、映画のキャッチコピーです。
パンフレットを購入していないので、はっきりとは分かりませんが、上記の一行はこの映画の宣伝文句で、ソクーロフの言葉は下の二行だとおもいますがソクーロフ天皇像が、表れています。


ここでいう悲劇とは?
天皇ヒロヒトは傷ついたひとりの人間だった。
好むと好まざるとに関わらず、天皇に生まれた。
天皇に生まれたことが悲劇であったのか、それとも、戦争(敗戦)という悲劇を生きたことを悲劇というのか。


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小さな島で、生まれた時から毎日の生活が逐一全米に放映されているというジム・キャリー演じる『トゥルーマンショー』に裕仁の悲劇を思います。


しかし、仮に裕仁個人に公的な戦争責任がないとしても、天皇ヒロヒトに戦争責任はある。
戦後も天皇でい続けるべきでなかった。*1


天皇を相対化できないまま、日本人は『トゥルーマンショー』を見続け、今も、『トゥルーマンショー』は終わらないのだと思います。




#露店で賑わう井の頭公園@吉祥寺

*1:主旨を鮮明にするため追記しました。