二月歌舞伎@歌舞伎座

azamiko2006-02-08

Kが歌舞伎をみたいと言い出して、ふた月に一回歌舞伎座に通っている。
3日の節分の夜に行ったのが親子観劇3回目。
歌舞伎の面白さがわかって来たように思う。

舞台上の閉じられた世界が、観られることで、時間の洗練をうけ、純化されたエロス&タナトスの世界が歌舞伎だろう。
演じられる時代は容易に抜け出せない閉じられた世界であるけれど、それに繋がっている現実世界が閉じられていないわけではなく、だからこそ、リアリティーをもって感じられるのだし、物語世界をどのように捉えるかは、当然のごとく、観客である側に委ねられている。


今回の出し物のひとつ『梶原平三誉石切』は、梶原景時とわけ合って、刀を売りに来た父と娘の噺。
わが身を試し斬りに供し、みごと刀が銘刀であることが証明されたら、娘に金を渡してほしいと父がいう。
二つ胴と言って、刀の試し切りに罪人を使い、二人を重ねて斬るというがあったらしい。
試し切りをされる罪人がおどけた調子で訴えるという場面で観客の笑いを誘うのだが、舞台上のフィクションとして、可能であるばかりではなく、それがその時代の現実的な断面であることを表している。
観客がその時代のリアリティーにあれば、罪人の試し斬りを肯定的に受け取っているかもしれないし、現実的な断面としてブラックユーモアとしての笑いであるかもしれない。
時間という洗練が笑いという形式を選んだのではないだろうか。
観客の笑いはさまざまであるけれど、歌舞伎の世界が、価値の再生産をする側面があるというのは確かだと思う。


『京鹿の子娘二人道成寺』は清姫の亡霊となって道成寺の鐘の再興にあらわれ、舞を舞うというもので、亡霊となってまでも安珍を追い続ける清姫菊之助玉三郎のふたりで演じ、舞ったが、若くて美しい菊之助の踊りはやや硬く、玉三郎の踊りは哀しさを表していて、ふたりの踊りの違いが感じられた。
この物語を男のつくりえた物語として、フェミニズムから読み解くことは可能だし、その必要もないとは思わないけれど、男(女形)が女(清姫)を演じることで、現実の女から、むしろ抽象化された女(の怨霊)という、生々しさを伴った、エロス&タナトスの物語に昇華されているように思えた。


『人情噺小判一両』は浪人と子の貧しい二人住まい。
こどもが凧売りと諍いをしているところに出くわしたことが縁で、同情したざる売りが、なけなしの一両をこどもに恵む。ざる売りの菊五郎がとてもいい味を出している。
謹厳な父親は、武士として、情けをかけられたわが身を恥じて、手紙を残し自害してしまう。
情けをかけたことが浪人を死に追いやり、あだになったとざる売りは悔やむ。
単に身分制度時代感覚だけではこの悲劇を説明しきれない、生と死の厳しいはざまに生きる人間の現実を思い、胸打たれた。


この日の演目をみただけでも、すべて死をテーマにしている。
今とは違った閉ざされた時代を前提にしているからこそ、観る側にとっては生(性)と死とが純化されたものとして感じられるのかもしれない。


一幕目の終わったところで紋付袴、出演者総出の豆まきがあった。
でも、早々にトイレに立ってしまったので、豆袋争奪戦には参戦できず(^−^;