箱根駅伝

2日、みぞれ混じりの中、上り坂を走る長距離ランナーをみた。
贅肉のそぎ落とされた身体。
長期にわたる走りこみで鍛えられ、蓄えられた必要最小限に思える筋肉。間歇的な足音。
降りしきる氷雨に顔面を歪めながら、熱気を漲らせて、駆け抜けてゆく走者を目前に、熱いものがこみ上げてくる。

あまりにも、あっという間だったので、シャッタースピードがついてゆけず、携帯で、3,4位の選手をやっと捉えたぴんぼけの一枚↑
どこのチームか分かりません(^−^;

駅伝をみていて、なぜか、年末に放映される赤穂浪士の討ち入りを思い出した。
駅伝という競技には物語性がつよい。
冬というシチュエーション。
ひとつの目的に向かう密度の濃い集団。
個人競技であるとともに集団の一員であることが大前提なチームプレー。
飛びぬけた選手がいる一方、いつもの調子が出ない選手もいる。
個人の能力をこの日、この為に最大限実現させながら、タスキをわたすということにこそ意味がある。
限界を超えながら、ふらふらになりながらも、タスキをわたす。
時間切れでタスキをわたすことができないまま、走者が出発しなければならなくなる場合もある。
一人の挫折がチームの目的を妨げる結果にもなる。
その緊張感が悲喜劇となって物語を生み出している。


物語を見るには一定の枠があるように思う。
赤穂浪士の討ち入りは、主君の仇を討つという武士社会の封建体制を前提としているという枠。
赤穂浪士の物語を観て、感動するというのは、この枠の中の人間と同一化して感動しているということでもあるし、その枠が信じられなくては物語は成立しないと言ってもいい。
それは物語を楽しむのに、むしろ、必要なことでもある。
私は駅伝を否定的に語るつもりはないし、感動することしばしばである。
しかし、現実に立ち返ったとき、その枠は検討される必要もあるように思う。
集団の目的の為に全力を尽くすということは悪いことではないし、私も好きだ。
それが枠(物語)が要求しがちの過度な集団への忠誠心や固執にならなければと思う。
集団への無条件な寄与が美化されなければ。
そういう危惧を、ひたむきに走る選手に感動しながら、駅伝から感じてしまう私は、スポーツに対する偏見をもっているということなのだろうか。


【コメント関連URL】

牧野信一
http://www.connec.co.jp/makinos/
電子文庫
http://smakino.sakura.ne.jp/
青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person183.html


『シュルツ全小説』工藤幸雄=訳 
シュルツ全小説 (平凡社ライブラリー)
http://park8.wakwak.com/~w22/628.htm

http://www.excite.co.jp/book/news/00021132105831.html