『戦後60年』上野昂志&大塚英志トークショー

戦後60年お得意の時計の逆回しです(笑)。
11日に引き続き、18日も青山ブックセンターへ行きました。上野昂志『戦後60年』刊行に際してのトークショーのゲストは大塚英志。前回と違って狭い会場だったせいか、上野さんの声がくぐもって聞き取りにくく、大塚さんは早口なので、これまた聞き取りにくいところがあった。
ゲストの大塚さんは上野さんの読者の批判を仰ぎたいとの意思からのご指名だったようだ。大塚さんは上野さんが文筆業の初期にガロで「目安箱」という時評を書いていたのを批評のスタイルとして面白く読んでいたと言われていて、私も当時の読者として共感した。
以下おもいつくままに印象に残ったことを。
戦後50年がたったとき、「戦後」60年はないと思っていた。(戦後50年に『戦後再考』という本を出版)
歴史という時系列の時評というものを、『ポストモダン』は否定してきたが、非歴史的な言葉、現在を肯定するために都合よく過去を引用されるような言葉、日常に逃げ込む言葉の横溢する現在、歴史というものの文脈を内在させた時評が必要である。
音楽でいえば、ボブ・ディランジョン・レノンフレディ・マーキュリーもマイケルジャクソンも同じ時間軸の中で語られるというのは違うはずだ。
日本の状況は「言葉」が失われている。言葉の内実を問おうとしない。実質のないキャッチフレーズのような言葉があふれ、言葉のもつ多義性がなく、白か黒か、二者択一になっている。
それは論壇も同じで、論争がない。成立しない。どこか他で悪口を言うか、無視するか、論争を回避する。ゆえに、転向は起こりえない。
批評の場はどんどん失われ、メディアにでるということは踏み絵を踏むということである。
先日TVを観ていたら、テリー伊藤が「雅子さん、愛子さん」と言っていたのが、あるときを境に「雅子さま愛子さま」というようになった。今、メディアにでるということは踏み絵を踏むことを強制されるということである。
「空気をよむ」「イロがつく」ということに異様に神経を使っている。

大塚さんの言われていたことのなかで印象深かったのは、柳田國男田山花袋私小説を評価しながらも、個としての言葉にとどまらない、共同性のある言葉の必要性を説いたが、それは今の状況でもある。と何回か言われていた。
このことは、大澤真幸さんが強調されていた関係性の絶対性へ向けてという、真のポストモダンにいたる言葉の問題として語られていたことと通ずると思った。
『歴史のケミストリー』の中の「巫女の視点に立つこと」という章でやはり柳田國男を引用して、社会学とは巫女の視点に立つということ。言い換えれば、抑圧されている者に証言への通路を開くことであると書かれている。
お二人が共通して言おうとされているのは、この共同性模索の視点の必要性だろう。今の批評においても求められているものでもあるはずだ。

会場で偶然Mさんに会う。電話しようか迷っているうちに当日になってしまい連絡しなかったのでしばらくぶりの思わぬ遭遇を喜ぶ。
ふたりで道玄坂の途中の鳥ぎんで五目釜飯を食べた。お味はイマイチ。
むかし食べた時にはあんなに美味しいと思ったのに、舌が肥えてしまったのだろうか。
おみあげに焼き鳥を注文。あれもこれもと頼んでいたら15本、3000円にもなってしまった。 お値段もイマイチ。


当日の内容をとても正確、丁寧に記述されているブログをみつけました。是非、ご確認くださいませ←他力本願(^-^;
【参照】Kawakita on the Web
http://d.hatena.ne.jp/kwkt/20050918