『何が私をこうさせたか』金子ふみ子 著

何が私をこうさせたか―獄中手記
大杉栄幸徳秋水を知っていても、朴烈を知る人は少ない。伊藤野枝や管野須賀子は知っていても、金子ふみ子を知る人は少ないと思う。私も同様。tosukinaさんから紹介された金子文子の手紙を読んでいなかったら、たとえ、我が家の書庫の隅っこに埃を被って積まれていたこの本ををみつけたとしても読もうと思わなかったと思う。本のタイトルはいかにもセンセーショナルで、好ましいとは思わなかったけれど、このタイトルは売らんかなのためのタイトルではないということが本を読んで分かった。
ふみ子が社会に向け、訴えたかったことは彼女の生きて来た、監獄で自死するまでの23年という歳月を通してみれば、必然だった。彼女はある友人から聞かれた時にこう応えている。

「おや、あなた学校は?」
「学校?学校なんてどうだっていいの」と私は、事もなげに答えた。

「どうしてです。あなたは苦学生じゃないんですか」
「そう、もとは熱心な苦学生で、三度の食事を一度にしても学校は休まなかったのですが、今はそうじゃありません」
「それは、どうしてです」
「別に理由はありません。ただ、今の社会で偉くなろうとすることに興味を失ったのです」
「へえっー!じゃあなたは学校なんかやめてどうするつもりです」
「そうね。その事について今しきりと考えているのです・・・。私は何かしたいんです。ただ、それがどんなことなのか、自分でも解らないんです。がとにかくそれは、苦学なんかすることじゃないんです。私にはなにかしなければならん事がある。せずにはいられない事がある。そして、私は今、それを探しているのです・・・」

私はあまりに多く他人の奴隷になりすぎてきた。あまりに多く男のおもちゃにされてきた。私は私自身を生きていなかった。
 私は私自身の仕事をしなければならぬ。そうだ。私自身の仕事をだ。しかし、その私自身の仕事とは何であるか。私はそれを知りたい。知って、それを実行してみたい。

ふみ子は病弱だった友人新山初代に出会い、彼女から借りて本を読み、本を通して社会に対しての見方を開いてゆく。ふみ子にとって、初代のシスターフッドに出会ったことはとても大きかった。
封建的父権制社会のなかで、無籍者として生まれ、都合よく利用されてきたふみ子にとって、「万人の幸福となる社会に変革をすることは不可能」と考えるニヒリスティックな初代のシスターフッドは自分自身や社会を照射する触媒の役割を果たしただろうと思う。ふみ子は言う。

私も同じように、別にこれという理想を持つ事が出来なかった。けれど、私には一つ、初代さんと違った考えがあった。それは、たとい、私たちが社会に理想を持てないとしても、私たち自身には私たち自身の真の仕事というものがありうると考えたことだ。それが成就しようとしまいと私たちの関した事ではない。私たちはただこれが真の仕事だと思うことをすればよい。それが、そういう仕事をする事が、私たち自身の真の生活である。

ふみ子には初代とは違うふつふつと沸きおこるものがあった。
自分一個のものとして留めておけない熱情があった。そして、朴烈との出会い。
後半部分は彼女の活動が記されるべきだ。しかし、残念ながら書かれていない。それは、この自叙伝が獄中で書かれ、公判の審理に関わるからでもあるが、もちろん自己弁明のために書かれたのではない。
自叙伝は彼女の思想や行動を説明しようするプロローグとして書かれたものであり、タイトルはその思想や行動が必然であったことを表している。

書かれなかった最後の部分に充当する金子ふみ子の手紙は大審院での死刑判決を経て後、同志であった栗原一男に宛てたもの。
彼女の言葉は澄明な生への慈しみと自由と平等とにあふれている。
貧しく、学歴のない、頼るものもいない、向学心と、聡明さと粘り強さとを兼ね備えた少女だったふみ子そのままに。

散らす風散る桜花ともどもに潔く吹け潔く散れ
大審院判決前日の歌1926.3.25「獄窓に想ふ」 )

ふみ子が刑死よりも自ら死を選んだのだとしても不思議とは思わないけれど一抹の不自然さも感じる。
彼女は獄中、多くのを残している。

迸る心のまゝに歌ふこそ眞の歌と呼ぶべかりけり
派は知らず流儀は無けれ我が歌は壓しつけられし胸の焔よ
燃え出づる心をこそは愛で給へ歌的価値を探し給ふな

彼女の歌がほとばしるこころのままに歌われたものであることがよくわかる。
私が魅かれるシスターフッドの歌。

語れかし我にも情ありコスモスよ汝が胸のかなしき秘密を
友と二人職を求めてさすらひし夏の銀座の石だゝみかな
今はなき友の遺筆をつくづくと見つゝ思ひぬ、友てふ言葉

tosukinaさんのサイトのTOPページの一番上にあるのは「金子文子の生き方」そのわけがなんとなくわかったように気がします。