『反貧困〜「すべり台社会」からの脱出』著:湯浅誠

azamiko2008-12-19





世界には、貧しい人はたくさんいて、
日本の貧困はたいしたことはない。
社会保障があるではないか、
と、おもうひとは多いのかもしれない。


「富めるものと貧しい者が両極端に分化した不平等な私たちの社会は、いとも不思議な眼鏡を生み出し、経済的に上位にある者の目には、貧しい人々の姿はほとんど映らない仕組みになっている。
貧困層のほうから富裕層を、たとえば、テレビとか雑誌の表紙とかで、簡単に見ることができるのに、富裕層が貧困層を見ることはめったにない。
たとえ、どこか公共の場で見かけたとしても、自分が何を見ているのか自覚することはほとんどない」
    『ニッケル・アンド・ダイムドーアメリカ下流社会の現実』著:バーバラ・エーレンライク(P85)


ひとは見たくないものは見ない。
見えなくなってしまうらしい。
意識しないと見えない。反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書)
ホームレスは好きでやっているのだろうと思う方が楽だ。
ホームレスにとって町は戦場だと健次郎さんは語っている。
本書は困窮の実態と公的援助のうけにくさが貧困層を追い詰めていることを実例とデータで語る。



貧困は貧乏とは少し違い、「五重の排除*1 」によって追い込まれ著者は“溜め”とともに語る。


“溜め”とは、溜池の溜めであり、下界からの衝撃を吸収してくれるクッション(緩衝材)の役割を果たすとともに、そこからエネルギーを汲み出す諸力の源泉となる。(P78)


貧困とは溜めが総合的に失われ奪われている状態である。
三層(雇用・社会保険・公的扶助)のセーフティーネットに支えられて安定しているとき、あるいは自らの生活は不安定でも家族のセーフティーネットに支えられているとき、そのひとたちには”溜め”がある。
逆に、それらから排除されれば、“溜め”は失われ、最後の砦である自身と自尊心をも失うに至る。
“溜め”を失う過程は、さまざまな可能性から排除され、選択肢を失っていく過程である。(P80〜81)


溜めのない人をダシに、政府や企業が私服を肥やしているのだとしたら、国家ぐるみで貧困者を食い物にする「貧困ビジネス」に手を染めていると言われても仕方がない。(P95)


貧困ビジネス」の典型は軍隊だというのは周知の事実だろう。

貧困が大量に生み出される社会は弱い。
どれだけ大規模な軍事力を持っていようとも、どれだけ高いGDPを誇っていようとも、決定的に弱い。
そのような社会では、人間が人間らしく再生産されていかないからである。誰も、弱いものイジメをする子どもを「強い子」とは思わないだろう。
人間を再生産できない社会に「維持可能性」はない。
私たちは、誰に対しても人間らしい労働と生活を保障できる、「強い社会」を目指すべきである。(P209)

1998年以来三万人を超えてしまった自殺者。
世界不況はきっかけでしかなく、どういう社会を目指すのかということに尽きるだろう。




#『交ゼズ混ジラズ』PHOT BY MS.BEE

*1:教育課程からの排除 、企業福祉からの排除、家族福祉からの排除 、公的福祉からの排除 、自分自身からの排除