批判について

azamiko2008-02-14



批判は、理性的、論理的に、するべくしてするものであり、批判という言葉も、批判という行為もないがしろにするわけにはいきません。
批判という言葉を一義的に、
「建設的な結果をもたらすものではなく、他者攻撃の目的のため、誹謗中傷の隠れ蓑に使われる、ネガティブなもの。論争と反目を生むだけで物事の解決には結びつかない。」


と、捉えるとしたら、批判の必然的にたちあがってくるところ、止むに止まれぬ気持ちでされる批判をないがしろにするものになってしまいます。
誹謗中傷の隠れ蓑に使われるというのならば、誹謗中傷を排除するべきであり、「批判をしてはいけない」のではありません。
批判をいかに生かすかは、ひとにかかっています。
理性的、論理的にされた批判が誹謗中傷、反目を生むとしたら人間の弱さだとしか言えません。
まづは、批判の内容を客観的に検討する必要があります。
「批判を仰ぐ」「批判に耳を傾ける」という言葉が示すように。
アサーティヴなコミュニケーションを心がけることから「批判をしない」コミュニケーションはあり、日常的な対人関係としては分かりますが、それがどのような場合にも当てはまるとはいえません。


会社や、社会、国、学校というような個人を取り巻く、より大きな力からの個人に対する分析、評価、また批判は、トータルな個人としての存在を歪めてしまう可能性がありますし、精神を冒すという無視できない現実があります。
力が均衡でないだけに個人の存在を歪めてしまいかねない批判は否定されるべきです。
しかし、一対一、あるいは信頼関係における論理的な批判は、ときに必要ですし、言葉によって論じている学問や学説、作品にとっては重要です。
だからこそ、「批判を仰ぐ」「批判に耳を傾ける」という言葉が示すように、あえて、否定的な内容である批判が歓迎されるということになり、歴史的にも学問や学説、作品が磨かれる上でも必要なものだったのです。
また、より巨大な力に対するジャーナリズムは、権力のチェック機能として、批判というものがなくては成立しません。


批判は、物事の解決、克服のためにこそされるべきであり、誹謗中傷や反目を生むとしても「批判」という言葉に責任はありません。
批判という言葉を遺棄したからと言って、問題は解決しません。
「批判は容易」と、言うとしたら、その人の批判というものの認識レベルはとても低いものなのでしょう。
容易な批判しか知らないか、批判せずにいられない切迫した状況にないからに違いありません。
本来、批判は容易にできるものではなく、容易にできる批判ならば、どんどん放棄するべきなのです。


論争や反目を生むことはありますが、論争と反目を同じレベルで考えるのは間違いです。
論争は生んだ方がいいとも言えます。
論理的、理性的批判による論争は淘汰されてゆくはずです。
また、解決に結びつかないことはあったとしても、その時点での解決にはならなくとも、長いスパンで見れば批判が有効であったということはよくあります。
批判から反目が生まれるとしたら、人間の弱さだとしかいいようがありません。
それは無視できない事実ですが、そのことは、むしろ内在している自らの弱さに気づく契機になるということもあります。
そのときにはただ、相手を憎んでいたことが、時間の中で冷静に客観的に見ることができるようになり、受け入れることができるということもあり、それは決してマイナスではないのです。
それもまた、人間の力ですね。
人間はそれほど強い生きものではありません。
それでも、人間は強くなれる生きものなのです。
自分を含めて、批判されて、そのことに耐えられる人は多くはありませんし、たいがい、感情的になって、関係は壊れることの方が多く、たとえその批判内容が正しくてもいい結果にはならないと考える人は多いかもしれません。
たしかに、一般的にはそうなのですが、批判に相応の正当性があるのならば、批判を受け入れるということはできないものだろうかと思います。
それは、容易なことではありませんし、なかなかできることではないのですが、それが批判をよりよい意味で生かし、批判に報いることだろうと私は思います。


批判が否定的内容を語る、ということはたしかですが、批判という言葉を多義的に捉え、批判の必要性について考えてみることは、とても大事なことだと思います。