[映画][社会]『チョムスキーとメディア〜マニュファクチャリング・コンセント』〜監督:マーク・アクバー、ピーター・ウィントニック
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チョムスキーの著書『マニュファクチャリング・コンセント *1』の映画版。
167分(第一部:95分+第二部:72分)
1992年に公開されたこの映画は、現在の日本のメディアに照らしてみても、あまりに的を得ているし、示唆に富んでいる。
マスコミ報道が公正ではないと感じるようになって久しい。
日本のジャーナリズムが死に態であると語っていた森巣博、森達也の『ご臨終メディア〜質問しないマスコミとひとりで考えない日本人』は納得することばかりだったけれど、よほど意識的に情報収集をしていないと、自然に刷り込まれてしまっているということだ。
「自由競争」を建前とする現代の民主主義国家におけるプロパガンダは政府による検閲や悪意による報道の歪曲ではなく、マスメディアがもつシステムそのものによって、ごく自然に行われている。
一般大衆はマスメディアに主権をもたない。
すべてのニュースはマスメディアが構造的にもつ5つのフィルター(濾過装置)を通して伝えられる。
ニュースを選別し、反対意見を小さく見せ、政府と大企業のメッセージを伝える。
ほぼ同じ時期に起こったアジアでのジェノサイド「ポルポト政権によるカンボジアの虐殺」と「東チモールへのインドネシアの虐殺」の報道の差をみれば一目瞭然とチョムスキーは語る。
メディアを通じて、あるいは公開の場で彼を偏っていると批判する数々の論敵と論争するシーンがある。また、チョムスキーを批判する市民とも冷静に、粘り強く語る。
この映画は、チョムスキーのマスメディアに対抗する実践篇とでもいうもの。
特に、印象的だったのは「フォリソン事件」といわれるナチスによるガス室の存在を否定した記事を発表したロベール・フォリソンの著書の序文にチョムスキーの表現の自由についてのテキストが使われたことから、市民の批判を受け、表現の自由、言論の自由は「ガス室がなかった」という言論についても言えることであり、ガス室はなかったということに同意することでも、ガス室はなかったかどうかを議論することでもない。と語る。
では、マスメディアに主権をもたない市民は、どうしたらいいか?
オールタナティヴのメディア(独立系の出版メディア、地域コミュニティーを基盤とする非営利目的の放送局やTVネットワーク、インターネットなど)を創出し、支えることで行動の拠り所をもち、ひとと繋がって行くこと。
固有の価値観をもち、ひとと繋がってゆくことの大切さは、マスメディアに限らず、地域や身近な関わりからも実感していることでもある。
インターネットもそのための大きなツールであると確信しています。
#アンデパンダンへの階段@京都
*1:マニュファクチャリング・コンセント(合意の捏造)とは、一般大衆から彼らの望んでいない合意をとりつけるための新しい技法。(ウォルター・リップマンが1929年代に使った言葉)