[雑記]Gくんの死の記憶のために


1月半ば、Gくんが逝った。
突然の訃報に、驚きながら、不思議な感慨に満たされる。
放課後のジャングルジムのてっぺんで、友人たちとおしゃべりしていた声、姿。
彼との接点は、ただ一度。
小学校6年生のとき我家の門口で、大きな体躯をこれ以上小さくできないほど、小さくして「ほんとうにすみません」とこころから申しわけなさそうに、明るいお母さんの隣でうなだれていた。
下を向いているのでその時の表情はわからないけれど、涙まじりの声は今もはっきり思い出す。
身体は大きくても小学生だったGくん。
ことの発端は、おそらく、こちらに非があったのだと思う。顔を紫色に腫らして、見られまいと、殴られたことも口にしないMだった。
サッカー三昧の日々。
中心メンバーとして関東大会にもでた鼻っ柱を転校してきたばかりのGくんにへし折られたということだ。
Gくんはだれよりも身体が大きかった。
6年生で170センチもあって、子どもの中に大人が混じっているみたいに、先生よりも大きかった。
頼りがいのある、正義感の強い彼の周りにはいつもひとの輪ができていた。
中学生の頃お父さんが亡くなり、友人の弔辞ではとてもさみしがり屋だったとも。
私立中学では生徒会長。高校でアメリカンフットボールに出会い、スポーツ推薦で入学した大学で活躍。
卒業後は本場のアメリカに渡るべく語学勉強中だったという。
脳腫瘍がみつかり、5回の手術。
一年半の闘病生活は、後遺症に苦しみながら、たびたびの痙攣発作に苦しめられ、ついに帰らぬ人とになった。
斎場は若いひとであふれ、彼を慕う交友のひろさをうかがわせた。

半身不随となって、車イスの闘病生活を彼はどんな思いで乗り越えてきたのだろうか。

弟の成人式の羽織袴姿と一緒のもの以外、闘病中の写真はどれもおどけて笑っている。
お見舞いに来た友人に冗談を言っては笑わせていた。


弟のYくんが語っていた。
「・・・・・・
ぼくはGくんがキライでした。大きらいでした。
でも、病気になってからGくんが大好きになりました。
Gくんが入院で家にいないとさみしかった。
Gくんの弟でよかった。
兄はぼくとともにいます。
半身不随になってからも、リハビリにも懸命に取組んでいて、メニューを減らしましょうかといわれても、どんなに時間がかかっても必ずやり遂げていました。
ぼくは、サッカーをやっています。
1000メートルを懸命に走らなくてはいけないときも、Gくんの踏み出す一歩を思い出すたび、走ることができます。
Gくんはぼくとともにぼくの中にいます。
ぼくが出かけるとき、Gくんは、家のどこにいても、トイレの中からでも「行ってらっしゃい!」と必ず大きな声で送ってくれました。
今はもう言ってくれない。
Gくんの「行ってらっしゃい!」は「オレがついてるぞ!がんばれ!」という言葉だったのだと、思います。・・・・・・」



柩いっぱいのからだ。
からだいっぱいの柩。
花に埋もれて、24の冬。







#う〜ちゃん@枯葉