暑さと空虚さと

azamiko2006-08-21


亀岡(京都)−奈良ー伊勢志摩をめぐり、19日に帰宅しました。
後半、伊勢志摩では雨が降って涼しい時もありましたが、真夏の京都、奈良は、とっても暑かったです。
観光だからこそ、余計に暑さを感じたに違いありません。
暑い、暑いといいながら観光している身。
余裕があるからですね。
はじめて訪れた苔寺(西芳寺)の苔も枯れ気味なのではないかと思うくらい、精彩が感じられませんでした。
でも、三日たってちょっと、あの暑さが懐かしくもあります。
何年ぶりかで訪れた室生寺長谷寺の石段や回廊がとても山寺のよさを感じさせてくれたのです。
石段に汗を滴らせながら上ることに禁欲的な思いを抱くことができたようにも思います。

しかし長谷寺のかつては賑わっただろうと思われる沿道がすっかりさびれていたのは、心が痛みました。
歩く人が減って車や観光バスで寺まで行き着く人が多いためなのではないかと思います。

今回のハイライト、はじめて訪れた伊勢神社は参拝客が多いのに驚きました。
五十鈴川の流れを渡り、樹林の茂る境内の玉砂利を踏んで歩くとしめやかな空気に包まれます。
かつて訪れた安芸の宮島厳島神社には及びませんが、樹林に包まれる澄明な空気の密度を感じます。
しかし、本殿の実態はまるで理解不能です。
いったい中には何が祀られているのでしょう?
なんて、野暮なことは誰も考えないのでしょうか?
むしろ、そこには空虚がどっかりと座っているように感じたのです。
神様がおわすということを信じることはできないけれど、なにやらそこには目に見えない「力」のようなものが集約されているようにも思いました。
神の実態とは、この集約された力なのかもしれない。