「国旗・国歌強制に反対する」をめぐって 7『テロリズム 殺すこと殺されること』〜「憲法九条、いまこそ旬」

4月9日(土)は、『思想の科学・公開シンポジウム 戦争の世紀を考えるー③「テロリズム 殺すこと殺されること」』に参加しましたが、とても面白かったので、簡単に要旨など書いておきます。
講演者の小田実鶴見俊輔さんのおふたりは『九条の会]』のメンバーで、この日は九条の会のメンバーとしてではありませんでしたが、内容的には日本のこれからの行方ということになって行きました。憲法九条、いまこそ旬 (岩波ブックレット)

小田実さんのお話で印象に残ったのは、日本が先の大戦で参戦したことには、当時、ヨローッパによるアジアへの侵略が著しく大東亜共栄圏の構想、東洋の解放にはそれなりの「正義」があった。当時を生きた人間として実感として鬼畜米英、国民一丸となって、抑圧するアメリカ、イギリスに対抗しようとしたという記憶はある。
もちろん、大東亜共栄圏の構想に一方で論理・倫理に矛盾があり、侵略という間違いがあったことはたしかだが。そして、結果的に敗戦。敗戦したことによって、日本人は知ったはずである。結局武力に対し、武力によってではなんの解決にもならないということ。徹底した非暴力、戦争はしないということ以外に解決はないということを。そういう非暴力の覚悟が日本国憲法である。
9・11世界貿易センターに突っ込む旅客機を見ていて、即座に「特攻」であると悟った。かつて、日本が第二次世界大戦で行った「特攻」(カミカゼは貧乏人のもっているF16)にほかならなく、つまり、ある「正義」、抑圧に対して行う解放という「正義」を全うしようと、これしかないという形で行われるのが自爆テロである。
しかし、犠牲となる人を見た場合、イラクパレスチナイスラエルどこをみても、市民である。市民の立場で考えると、もはや、テロという正義は考えられない。
戦後、戦争という「正義」では、解決しないと知った日本は今こそ世界に向けて、武力では解決しないこと。解放されないことを知らしめなければならない。戦争放棄、非暴力を働きかけていく責務がある。そういう仲介をすべきである。それができるのが平和憲法をもつ日本であるはずだ。
だからこそ、「憲法九条は今でも旬」ではなく、「今こそ旬」なのである。
しかし、現実は戦前に戻ろうと改憲しようとしている。
九条の会」は平均年齢76歳。高齢だからこそ希少価値がある。若い人たちを入れよう、いろんな団体とタイアップして進めようという意見もあったが、ひとつの会として独自にやっていこうということになった。少しずつ着実に流れができてきている。
各地で集会をやっても全国紙で報道もされない。しかし、着実に増えている。何が何でもひどすぎるとなったら、必ず市民は立ちあがる。

4月30日はベトナム終戦30周年ということで、経験者にとっては「ベトナム反戦運動から何を得たか?」未経験者にとっては「ベトナム反戦運動から何を得るか?」というテーマで、芦屋(駅より徒歩3分、13時半より)でイヴェントを予定しているそうです。新大阪より20分是非来てくださいとのことです。

鶴見俊輔さんのお話は、非暴力について、母から幼い頃より「おまえは悪い人間だ」と意味もなく、殴られ続けたことによって得た、悪人意識。反動意識としての不良少年という自意識が根底にある。
大庄屋だった田中正造の「自分は悪い人間だ」という意識がよくわかるとも。
なぜ、アメリカが2個の原子爆弾をを日本に落としたのか。一つ目ですでにその威力は証明され、日本はすでに抵抗の力がなかったにもかかわらず。アメリカ兵の犠牲を少なくするためというのは詭弁であり、違った能力の2個目の原子爆弾を試したかった。戦争の資金調達をしてきたことによる、威力の証明が必要だったからであり、当時のリー海軍大臣は原爆を落とすことを反対した人だった。
当然、戦勝国にも戦争犯罪裁判が必要である。ベトナム戦争におけるラッセル裁判のような例もあるが。
東京大空襲で母と子で被災した人のお話を聞いた。赤ちゃんは死んで、3歳の子どもが自分ももうすぐ死ぬというとき「赤ちゃんは苦しかっただろうね」と言ったという。
人間はこの3歳の子どもの「赤ちゃんは苦しかっただろうね」という気持ちににどこまで近づけるかということではないか。
民主主義とファシズムはいわば、セットであるといっていい。民主主義の退廃したところにファシズムが起こる。民主主義が実現したと安心したところにファシズムが立ち上がってくる。
アメリカが覚醒するのは、50〜60年かかるだろう。しかし、日本はさら退廃し、遅いのではないか。
非暴力としてガンジーが上げられるが、日本の良寛はそれを越えているように思う。
30年前『ベトナムに平和を!市民連合』で小田さんと知り合ったときに歳をとったら自分がボケたということに気付かないようだ。そんなときのために、相手がボケたと思ったときには、中華料理に誘うことにしようということにしていたが、半年前に小田さんに中華料理を招待され、今日この日に私が小田さんを中華料理に招待した(笑)。
ヘンリー・ミラーの「自分の尻に座れ」という言葉を旨に自分なりの活動をしてゆきたい。


ボケているという自覚のおふたりですが、老境にさしかかって、見えること、後の世代に託すお気持ちが痛いようにわかるお話でした。