[社会]「卒業式に思う」後日談

12日の「卒業式に思う」の長い日記を読んでくださったみなさま、また、コメント、メッセージをお寄せくださったみなさまありがとうございます。私的にも、お電話やFAXをいただいていますが、批判的なご意見でもけっこうですので、今後ともよろしくお願いいたします。
千葉県在住のSさんからは県知事選挙が僅差であったことで、次期選挙が気がかりだと書かれています。埼玉県知事が「新しい歴史教科書をつくるの会」のメンバーを教育委員にした問題もありましたが、東京都政の影響力は非常に強く、東京だけの問題ではないとあらためて思います。
私の行動自体ははかなり突発的、差し迫ったことだったので、あるいは誤解を受けるのではないかと危惧していました。
思想信条によって行動した教師が処分されることはあってはならず、二度三度と処分が重なると、教師として危ういことになります。それを承知で、「思想信条にしたがって行動することを支持する」と書けば、先生たちをより苦しめるのではないか。先生たちを苦しい立場に追い込むことが私の本意でないのはもちろんです。また、一方それでもなお、苦しい立場に自身を追い込んでも都の処分に抗議して行動しようとする先生たちを、なんとかサポートしたい、力づけたいという気持ちから保護者として最低限可能なこととしてしたつもりでした。
ことの本質を考えなければ、卒業式という「現場を混乱させた」というおかしな理由で、出席していた保護者や生徒たちの矢面に立たされることにもなりかねません。先生たちは、二重三重に足かせをはめられているように思えます。
後で知ったことですが、かつてPTAの役員だった方が、在校生の保護者、卒業生たちと、日の丸掲揚、君が代斉唱の強制に反対する要望書を作成、卒業式の前日までに学校に届くよう、校長、教職員あてに60通を発送したということです。しかし、その後、それらの要望書は教職員たちの手に渡っておらず、私の書いたものからも、校長の判断で配布をしなかったのだろうと推測されますが、多忙な仕事の合間に苦労して作成した要望書にもかかわらずそのような結果になったことに憤り、今後、配布しなかったいきさつについて、糾したいと語られていました。
4月には入学式も控えています。もう、終わったことではなく、これからも注目してゆかなければと思います。
12日のコメント欄にも引用した『デモクラシーの冒険』( 姜尚中, テッサ・モーリス‐スズキ著)の扉に書かれていたマルチン・ニーメラーの言葉デモクラシーの冒険 (集英社新書)

「ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。ついでナチ党は社会主義者を攻撃した、私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったからから何もしなかった。ついで、学校が、新聞が、ユダヤ人等などが攻撃された。私はずっと不安だったがまだ、何もしなかった。ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動したーしかし、それは遅すぎた」

を何度でも思い出して。