『もりのなか』マリー・ホール・エッツ著〜一瞬の喪失

もりのなか (世界傑作絵本シリーズ)

もりのなか (世界傑作絵本シリーズ)

好きな絵本はいろいろあるけれど、古典といえる、マリー・ホール・エッツの「もりのなか」は大好きな一冊です。そのことについて少しお話しようと思います。
ご存知の方は多いと思いますが、お話の内容を簡単に説明すると、少年(ぼく)が、森の中を散歩しようとでかけます。その途中、いろいろな動物(らいおん、ぞう、くま、かんがるー、こうのとり、さる、うさぎ、)にであい、みんないっしょにおさんぽします。そして、森の奥で、みんなでテーブルを囲み食事をしたり、ゲームをしてあそびます。最後にはかくれんぼで少年が鬼になり、「もういいかい!」と目をあけると、そこにはお父さんだけがいます。おとうさんといっしょに手を繋いで家に帰る。というお話です。
表紙と裏表紙は一枚の絵になっていて、紙の帽子を被り、喇叭を吹いている少年を先頭に森を行列して歩く動物たちが横に長く白と黒のクレパスのタッチで描かれています。そして周りをぐるりと包むように茶色が使われています。本の中はすべて白と黒だけで文章は一、二行、いちばん長くて四行です。

この絵本のどこに魅力を感じるのでしょう。いつか、ちゃんと考えてみたいと思っていました。絵本を読み解くなんて、邪道だとは思いながら。どこに魅かれるかということは、とりもなおさず自分を知ることでもあるとおもいます。
少年は5,6歳くらいでしょうか。その年齢の少年にとって、暗い森をひとりで歩くというのは、大きな冒険です。これから出てゆく今まで以上に大きな未知の社会を表わしているようです。
暗い森に向かおうとする喇叭を手にして、紙の帽子を被った少年の後姿を大きな木がとリ囲んでいます。大きな木には耳のようなウロがいくつも見えます。森は静かで少年の歩みにじっと耳を傾けているようです。
紙の帽子と喇叭は、ある日少年が森をひとりで歩こうと思ったときに手にしたもののようです。喇叭はお誕生にプレゼントしてもらったのでしょうか。紙の帽子はあるいはお誕生日パーティーでかぶったものなのかもしれません。少年は一つ大きくなって、森に一人で出かけようと思い立ったのかもしれません。
少年は喇叭を吹きながら森に入って行きます。
それから出会う動物は、少年よりもずっと大きいライオン、像、熊ですが、彼らはみんな日常生活の大切さ(みだしなみや食事)を表わしているように思います。ライオンはたてがみを梳いてついてきます。2頭の像は鼻で水を掛け合って水浴びをしてからセーターを着てついてきます。熊はピーナッツやジャムを食べていましたがそれらをもってついて来ます。動物たちの連想が効いていますね。
おおきな動物たちも、みんな少年についてくるのは、日常生活をものにした少年の大きな自信がえがかれているようです。
そのあとに出会う、カンガルーやサルたちは学ぶことと遊ぶこと、これから出会う未知の楽しさを表わしているようです。赤ちゃんカンガルーがお父さんやお母さんに飛び方を習い、お腹の袋に飛び込みますが、家族への愛着を示しているようです。
次に出会う水辺にじっとしているこうのとりは、ものを言いませんが、歳をとっているからばかりではなく、こうのとりから連想する性が少年にとって好奇心に満ちたものだからでしょう。この姿がなかなかいいのです。そして、「みょうなとり」と感じます。水辺であることも無関係ではないと思います。歳をとったものの知識と性とを同時にあらわしているに違いありません。動物たちはみんな並んで待っています。水辺にはこうのとりと少年が見つめあう姿の足の部分が映っています。神秘性をこめているように思います。
最後に出会うのは、うさぎです。少年はうさぎに「こわがらなくて いいんだよ」と声をかけます。そして、先頭をあるいている自分と一緒に行列のいちばん前で歩くように誘います。少年の小さなもの、弱いものをいたわろうとする大きなもの、強いものの自負が感じられます。
森の奥では誰かがパーティーをしたあとがあります。アイスクリームやおかしもあります。熊のもってきたピーナッツやジャムも分け合って食べます。歴史や社会、経済の関連性を連想させます。テーブルについてみんなで分け合って食べること。
そのあとハンカチ落としやロンドン橋落ちたをします。ここの絵はちょっと整然としすぎていて不満です。みんなで遊ぶ場面、もう少し、楽しそうに描かれていてもいいように思います。
そして、最後にかくれんぼうをします。少年が鬼になり、みんなが木の影に隠れます。喇叭を足元において、大きな耳のようなウロのある木で目を瞑り数を数えますが、「もういいかい」と目を開けると動物たちはみんないなくなっています。それは隠れたからだけではありません。かくれんぼうの目を開けたと同時に夢からさめたのでしょう。冒険が終わったことを知らせます。そしてこの冒険は少年の夢の中のできごとだったのです。お父さんがいます。お父さんは言います。「きっと、またこんどまで まっててくれるよ」少年は夢の中で来るべき外の世界を冒険したのです。
それは少しづつ大きくなってゆく少年のいずれ訪れる世界との邂逅のシュミレーションだったといえるでしょう。
目を開けておとうさんだけがいることに違和を感ずる向きもあるかもしれませんが、少年にとってモデルとなるのが男=父であることを思えば、さほど不思議でもありません。1895年生まれのマリー・ホール・エッツにとって、外の世界との邂逅が「父」の暗喩であることは肯けます。そして、この絵本の中にはマリーホール・エッツなりの母なるものの刻印を描いていると思います。大きな動物(日常生活のもろもろ)と出会う少年が怖れることなく、歩んでゆく姿やまだ未熟な子どものカンガルーが飛び込むお母さんのお腹の袋のように。

この絵本から感ずるのは、全能感とでもいうものです。自分が無条件に生きることを肯定され、身につけたルールを守り、自分を発揮すれば将来を自分の力によって自分の人生の担い手になれるという。喇叭は自分であることを表すもの。能力や個性、やさしさやつよさではないでしょうか。紙の帽子はまだまだしっかりしたものでないことを表しているように思います。
私がとくに好きな場面は、森に入ってゆこうと少し身体を傾けて森の奥を伺っているような後姿の場面、こうのとりを見あげてじっと見つめあっている場面、最後のお父さんに肩車をしてもらって、喇叭をかざして帰ってゆく後姿もいいですね。誰もいなくなって大きな耳のようなウロのある木の最後の場面もすきです。大きなウロのある木は丈夫な肉体を連想させます。
大きなウロは偶然にではなく、耳=みみをすまして聞くということをあらわしているのでしょう。目を開けたときにお父さんが「いったいだれとはなしてたんだい?」とたずね、「どうぶつたちとだよ。みんなかくれているの」と言った少年は動物たちの姿は見えなくとも、彼らの気配を感じていたはずです。
藤田省三の『精神史的考察』の中の一節「ある喪失の経験ー隠れん坊の精神史」のなかで、「もういいかい」と眼を開けて仲間を探そうと振り返った時の経験をするかくれんぼうについて、

精神史的考察 (平凡社ライブラリー)

精神史的考察 (平凡社ライブラリー)

「急激な孤独の訪れ・一種の砂漠経験。社会の突然変異と凝縮された急転的時間の衝撃、といった一連の深刻な経験を、はしゃぎ廻っている陽気な活動の底でぼんやりとしかし確実に感じ取るように出来ている遊戯」

といっていますが、『もりのなか』の少年も目隠しから振り返ってやはり、たしかな孤独や砂漠経験をしただろうとおもいます。しかし、それが同時に夢であったから、目覚めた時に父によって、その孤独や砂漠経験は補完されます。補完されても喪失感は少年の中に残ったでしょう。「もり」の経験は「夢」の中のできごとだとしても、現実の体験として孤独や砂漠経験を味わったのはたしかです。さらに

鬼は隠れたものを発見することによって、市民権を再び獲得して、仲間の社会に復帰し、隠れた者の方は鬼に発見して貰うことによって、すなわち(妖精であれ動物であれ神様であれこの世のものならぬ)鬼に出遭うことを通して社会に再び戻ることができるのである。

と、あるように、『もりのなか』の少年は、夢からめざめることによって、鬼のまま動物たちの社会(もり、夢のなか)にいずれ戻る猶予を与えられました。そして、鬼が、かくれんぼうで隠れた動物たちを見つけなければ、動物たちもまた森(夢の中、社会)に戻ることは出来ないのです。だからこそ「きっと、またこんどまで まっててくれるよ」「さようならぁ。みんな まっててね。また こんど、さんぽに きたとき、さがすからね!」と再び来ることを約束します。動物たちが森に戻れるのは少年に委ねられています。少年がふたたび成長して、もりにやってくることを待つ物語といえます。

いうまでもなく、これは私の『もりのなか』です。少々観念的にすぎたかもしれません。いろんな読み方があるでしょう。マリーホール・エッツの意図は、あるいはもう少し違うところにあったかもしれません。
学校で絵本や文学作品を読んで、こういう読みかたが正しい、正解、不正解と正しい解釈を教えられることがあります。たしかに、作者の意図や普遍性というものが、いい作品には備わっているのだと思います。しかし、それは読み手がいろいろな経験から自分で感じたり、探ることにこそ意味があるのだと思います。絵本一冊から、その人、その人の感じたことを出し合うのって、楽しいですね〜。
『もりのなか』は今のこどもたちに決して人気のある絵本だとは思いません。白と黒の森の中を散歩するお話はあまりに地味に思えます。なによりも、こんな森が身近にないのですもの。ひとりで散歩するには怖いような森の経験がなければ、この絵本の面白さを感じられなくても当然です。だから、この絵本に限らず、面白いと言ったからと言って、面白く思えなくても、気にしないでくださいね。絵本も文学もまた時代とともに生きているということなのですから。

なんだか、長くなってしまいました。おつきあい戴きありがとうございました(^-^;
こんな解説を読むより絵本をそのまま読む方がずっと、ずっとたのしいですね〜・・・ほんとうに!