[映画][雑記]『阿賀に生きる』『阿賀の記憶』『SELF&OTHERS』監督:佐藤真〜映画的愉悦

阿賀の記憶』を最初に観た時にこのじんわりと満たされる気持ちはなんだろう。これをどのように表現したらいいかと思っていた。
先日、近くの大学のメディア論の授業*1で、詩人の鈴木志郎康氏が数本のフィルムを上映、お話しされたのをきいていて、言葉では表現できないクオリア(質感)と言われていたのに、合点がいった。
暗い土間に差し込む光、だるまストーブ、掛けられたやかんから吹きあがる蒸気、薪のはぜる音、おばあさんの方言、死んだお爺さんの座布団、秋空に高く実る柿の実、雪の残る田んぼに立って歌う老人・・・
それらのものすべての質感が映像を通して、私に愉悦をもたらした。
その場に立ち会っていて、映画館の座席に座って観ているだけの愉悦を味わえるかというとかならずしもそういうことではないと思う。作家(佐藤真)の目(レンズ)をとおしてフィルムに焼き付けられた質感に愉悦をおぼえたのだ。
50分ほどの『阿賀の記憶』は質感をまざまざ伝え、観るものの内なるものを呼び起こす詩的映像である。呼び起こすものは何かというと「なくなったものの存在」ということなのだろうと思う。
阿賀の記憶』は『阿賀に生きる』を撮って、10年後にその地を訪れたフィルムである。すでに亡くなっている人たち、流れた時間がある。
しかし、『阿賀に生きる』を観ていなければ、わからないというのではない。その魅力は充分に伝わってくる。
前篇にあたる『阿賀に生きる』は阿賀野川の農家に住み込み、農業の手伝いをしながら、3年あまりの歳月をかけて、そこに住む人びと(農業、船大工、餅屋など)の日常を通して阿賀を描いている。
人々の営みそのままに、ゆったりと時間が流れ、時間の流れと人びとの生活を支えている阿賀野川の流れに昭和電工有機水銀が溶け込んでいたことの理不尽を描いている。
この映画も質感をとおして歴史(時間)を感じさせるものだった。
このほかに『SELF&OTHERS』という牛腸茂雄という36歳で亡くなった新潟出身の写真家の残した写真とテープをもとに作られたセルフフィルムの形式の映画もあった。こちらは三鷹牛腸茂雄の写真展があったときに会場で上映されていて、その不思議な魅力にヴィデオを購入している。
その魅力が何なのかパンフレットに引用さている佐藤真が「ドキュメンタリーの存在理由」について語っている言葉で分かったように思う。

(それは)量的拡大を図るマスメディアとは対極の位置にある。まず、メディアとしての小ささに意味がある。対象との平板な距離を持つテレビとは違って、その距離感が主観であろうと客観であろうと、そのどちらかにきちんと、かつ過度に片寄っていること。テーマは、誰にでも、分かりやすくではなく、誰かしか分からないこと。対象への眼差しは偽善的な博愛主義のそれではなく、主観的な思い込みを根拠にしていること・・・

ドキュメンタリー映画の地平―世界を批判的に受けとめるために〈上〉

ドキュメンタリー映画の地平―世界を批判的に受けとめるために〈上〉

この佐藤真の言葉は鈴木志郎康さんのお話しと通じるものがあるように思った。
記憶に残った言葉で、あらましこのようなことだったと思う。
>世界は人びとの内にある。同じものを見ていても人によって見方はそれぞれである。自分の見方を身近な日常を撮ることで表現する。そうしたものを作品化することによって、コミュニケーションの回路をつくることもできるし、そのことによって、意志や決意を生む。そういう可能性は今のネット社会に、だれにでも開かれている。

胡桃ポインタ―鈴木志郎康詩集
鈴木志郎康さんのお話しは半分も理解できなかったけれど、上映された映画はとても面白かった。質感を映し出す作者の目がとても面白かった。

*1:だれでもどうぞという担当教授の意向に参加、鈴木志郎康氏はこの日の特別講演者